鹿児島県沖永良部島の知名町芦清良(あしきょら)集落はこのほど、子どもたちが聞き書き取材してまとめた冊子「知名町の子どもたちが再発見した私たちの宝もの」を刊行した。同冊子作りを機に、住民が江戸時代に造られた水窪水路跡を見学できるよう再整備。山本先友区長(72)は「地域資源として保存しながら、観光にも生かしていきたい」と話している。
冊子作りは奄美群島広域事務組合の宝をつなぐチャレンジ応援事業の一環。2023年度、町内の小学生~高校生と保護者が地域の神社、方言、芭蕉布、食材、島唄など各分野の知恵や技術を継承している13人を訪ねて話を聞き、まとめた。
水窪は自然の窪地。「沖永良部島郷土史資料」(1956年初版、和泊町発行)や「知名町誌」(1982年発行)などによると、1719年、水窪の地下を流れる水の穴をふさいで地上に水を出し、ハニクダ(兼久田)地区の水田まで水を引く水路開設工事が行われた。
岩盤を長さ約50メートル、深さ約3メートルから約7メートル、幅は底部約1・2メートル、上部約2・4メートルにわたって掘削。伝承によると、方言でマーイシと呼ばれる硬い石を棒に付けておののような形にし、石灰岩をたたき割りながら掘り進めたとされる。
当時の島では大規模な工事で、全島の協力により完成した。以降、何度か水漏れがあり、1893年には村民400人を動員して補修工事が行われたとの記録もある。
2001年ごろの畑地総合整備事業で周囲が整備される中、水路は国の減反政策に伴う水田の減少などで使われなくなっていたが、住民の要望で保存された。12年には「世間遺産『江戸時代の地下ダム』」として案内看板を立てるなど整備したものの、近年は草木が生い茂り、荒れ放題となっていた。
山本区長と共に冊子制作、水路保存に取り組んできた池田西一さん(77)は「当時は血のにじむような作業だったのではないか。先人の思いを少しでも残していけたら」と力を込めた。
島の開発計画地を事前に調査し、後世に残すべき景観や遺跡を掘り起こす活動を行っていた沖永良部郷土研究会(現在、活動休止中)の会長で、水窪の調査にも当たった先田光演さん(81)=和泊町=は「水窪は沖永良部の水田開発の記録がある唯一の場所。先人の開発努力を知るためにも残す価値がある」と話した。