奄美での音楽活動の中で、特に印象に残っていることは
「夜ネヤシマンチュリスペクチュ」というイベントを奄美パークでやれた時、島の人達が活動してきたものがあれだけ集結して、それぞれの島に誇りを持っているよっていうことを意識確認みたいなことができたこと。別の集落で育ち、その同じ魂の熱さは言葉にも形にもしきれなかったでしょうけど、みんな言葉には出さない目には見えないもので感じてきたことが、手に取るようにわかった瞬間だったのは今でもすごく印象深く思ってますね。
【夜ネヤシマンチュリスペクチュ】
今夜はシマの人を尊敬しようという意味をもつ、奄美の魅力を再認識しようという音楽イベント。
元さんにとって、「島唄」とは?
よく「島唄」を“アイランドソング”って思っている方が多いんですけど、基本島唄の「島」はカタカナの「シマ」、「シマ唄」の表記が正しい響きだと私は思います。
自分たちの縄張りを示す「シマ」なので、同じシマ唄の何々節でも、その場所によってなまりがでてきたりすることで、「あぁ、どこどこのシマの子なんだな」って、歌で分かるのが凄く魅力的だと思いますし、自分が生まれ育った小さな小さな集落に宿った魂を私はそのまま持っているわけですから、あそこで生まれ育ったおじいちゃん・おばあちゃんが喋る音であったり、鳥の鳴き声だったりタイミングだったり、自分が生まれ育ったすべてを持っていくことができるんですよ。
でもそれが、どこか別の集落で聴いたとき、その場所の木々のざわめきが思い出されたりするものだったりするので、そこに宿っている魂が「シマ唄」そのものに宿る。おじいちゃんやおばあちゃんが畑で作業しながら一節だけ口ずさむものが出す哀愁なんてものは、私にはまだまだ出せないです。
歌い続けていきながら、自分を知って行きながら、思いやる心が出来ていくってものなのかなって思いますね。
「シマ唄」との出会い
どこで出会ったかもわからない、生まれ育った時からずーっと一緒だったんですよね。
夕方になれば誰かしらが三味線を弾いてて、とか。
私がすごく頭に残っているのは、母がはた織りを家の縁側でするようになったんですよね。
その横に大きなレコードプレイヤーがあって、いつもそのスピーカーから大島ひろみさんが流れていた。
そのうち武下和平さんのレコードが流れるようになって、なんとなく当たり前にシマ唄や民謡が流れるようになって、隣のおにいちゃんが夕方になると三味線を弾いていたんですよ。2,3歳の時に家の床の間にあった三味線を弾く真似事をしていて、そのおにいちゃんが「これは弾くんじゃないか」ってちょっと教えてくれた。
そしたら母が、「この子やるかも」と、思ったらしく、町の公民館の三味線教室に連れて行ってくれたんですよ。
当時は、単に三味線が好きだったとかではなく、週に一回、街のおばあちゃんのところに行けるって思っていた。
大島ひろみ=宇検村出身。昭和38年頃、奄美新民謡を主に歌い女性から圧倒的な支持を得た。
武下和平=瀬戸内町出身。昭和30年代に島唄界に出現した伝説の唄者。
(出典:セントラル楽器)
三味線に触れるのが当たりまえだったんですね。
そうですね、あと、「こうやれ。ああやれ。」と厳しく教えられたんではなく、習い始めの時に、習ったことを次の発表までに一週間地元で練習してたら、それしかやることがないと、どんどん上手くなるじゃないですかそうするとおじいちゃん・おばあちゃんたちが畑仕事してる時に「ちょっと弾いてごらん」って言われるのが嬉しくなるじゃないですか。その繰り返しで、なんでこんなに喜ぶのかなって。
するとある時、「懐かしいねぇ」って泣き出したおばあちゃんがいて。
何にこんなに涙するんだろう?ハブに噛まれても泣かないようなおばあちゃんが何でこの歌に?っていうのはすごくあって。このおばあちゃんがよろこぶならもっと上手くなりたいなってー。 単純にその繰り返しですね。
「シマ唄」は、私からは取っても取れない、切っても切れないものです。