米軍統治時代の奄美の社会科教育について研究している、鹿児島県奄美大島の宇検村立田検小学校教頭の吉元輝幸さん(49)が執筆した論文が12月、日本社会科教育学会の機関誌に掲載される。戦後に新設された社会科が、奄美でも本土並みに早い段階から実践・研究されていたことを突き止めた。吉元さんは「社会科教育が復帰運動のきっかけにもなったと言える。当時の先生たちの努力を多くの人に知ってもらえたら」と語った。
同学会は社会科教育の状況や新たな知見について議論する場を設け、研究成果を教育現場に還元することなどが目的。筑波大学が事務局で、機関誌「社会科教育研究」は年3回発行。
吉元さんは指宿市出身。2005年から2年間、現職教員として鹿児島大学大学院で学び、社会科教育を専攻した。22年4月に田検小に赴任。翌年が奄美群島の日本復帰70周年だったことを機に、先行研究がほとんどない当時の奄美の社会科教育に関心を持ったという。「米軍占領下の奄美における社会科成立史研究」を題材に、文献調査や経験者への取材を行った。
論文では、戦後の日本で社会科教育が始まった背景を解説。連合国軍総司令部(GHQ)の指示による教育分野の改革に伴い学校教育法が制定され、1947年5月に社会科が重要な「コア・カリキュラム」として新設された。内容は生活学習を通した課題解決など実践的な学びを促すものだった。
奄美に学校教育法が公布されたのは本土から2年遅れの49年5月。論文では、実際にはこれよりも早い時期に教師らが情報を共有し、本土と同時期を前提に社会科導入の準備を進めていたとし、公布の日を「奄美の社会科成立と捉えるべきではない」と主張した。
根拠として、49年以前に発行された奄美大島連合教職員組合の機関誌や群島内の職員会議録に社会科に関する記述があること、研修・公開授業が実施されていたことなどを挙げた。
本土や沖縄と比べて、奄美では社会科の内容に関する批判的な議論が見られないことにも触れ、行政分離により情報入手が困難な中、奄美の教師らは「本土同様の教育制度や教科書が導入できるかどうか」に最も関心があったと考察した。
一方、子どもたちを取り巻く米軍統治下の貧しい生活環境は、社会科で扱われる内容とはかけ離れており、新たなカリキュラムの普及は困難だったことも指摘。こうした状況を脱するため、教育関係者の間で本土復帰を目指す機運が高まったことから、奄美での社会科教育の成立を「復帰運動の火種の一つ」と位置付けた。
論文は2回の査読を経て、今月17日付で掲載の知らせが届いた。吉元さんは「(文献を読み)当時の奄美の先生たちのたくましさや熱意が感じられた。こんなに大変な思いをしていたのかと涙が出る思いだった」と振り返り、「自分自身も勉強になった。今の教育にも生かしていきたい」と語った。
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