太平洋戦争中に米潜水艦の魚雷攻撃を受け、徳之島沖で沈没した輸送船「富山丸」の第58回戦没者供養祭(鹿児島県瀬戸内町主催)は18日、瀬戸内町古仁屋の森山公園であった。古仁屋小学校前の聖域の森に建てられた供養塔に遺族ら参列者が花を手向け、犠牲者の冥福と恒久平和を祈った。
富山丸は1944年6月29日、沖縄への増援部隊として約4000人の将兵らを乗せて南下する途中、徳之島町亀徳沖で米潜水艦の魚雷攻撃を受け沈没した。古仁屋港は沖縄へ向かう富山丸の最後の寄港地だった。
供養塔前の石碑によると、積載していた約1500本のドラム缶のガソリンも次々と爆発、炎上し猛火が海面を覆った。瀬戸内町では町民らが船で救助に向かい看護に当たったが、乗組員75人と将兵3763人が犠牲となった。供養塔は85年に遺族会により建立され、塔の前には富山丸の生存者、三角光雄さん(故人)の弔魂の辞を記した石碑が立っている。
古仁屋での供養祭には17日の徳之島での慰霊祭に参列した遺族ら43人と、瀬戸内町の関係者など来賓9人が参列。全員で黙とうをささげた後、鎌田愛人町長(代読)が慰霊の言葉を述べ、遺族らが献花し供養塔に手を合わせた。
富山丸遺族会全国連合会の杉田明傑代表理事(83)は「供養塔が建立され約40年。この間大切に供養塔を守り、供養祭を支援していただいてきた」と町への謝辞を述べ「当時は3700人もの人が亡くなっても一片の死亡通知が届いただけだった。『生命の重さ』を伝えていくことが私たちの大切な使命だと思っている」と話した。
参列した遺族会最高齢の川南廣展さん(88)=東京都=は8歳で父を失った。「おやじは帰ってくる、と思っていた。当時は幼く、甘えるだけで父の意思もあまりわからなかった。富山丸遺族会はみんな、同じ日時に同じ場所で家族を失った。多くを話さなくても分かり合える、きょうだいや親戚のようなもの」と話し、「戦争で親を亡くすことがあってはならない。その気持ちは変わらない」と語った。